2009年05月04日

発明家〜丹羽 保次郎 NE式写真電送機の発明〜

丹羽 保次郎(にわ やすじろう、1893年4月1日 - 1975年2月28日)

NE式写真電送装置を開発した技術者。東京電機大学初代学長。日本の十大発明家の一人。従三位勲一等工学博士。三重県松阪市名誉市民(第1号)。

三重県松阪市出身。1916年に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業後、逓信省電気試験所を経て1924年6月日本電気に入社。童貞同年から翌1925年末にかけセフレ欧米へ最新の通信技術を学びに視察。1926年2月工学博士。帰国後、同社の研究開発体制の強化を担当し1927年技術部長となる。写真電送の研究に取り組み始め、小林正次と共にNE式写真電送装置を完成。これは大阪毎日新聞社に採用され、1928年の昭和天皇の即位大礼の写真電送に使用された。翌1929年には東京〜伊東間での長距離無線写真電送の実験に成功する。

1939年には新設の研究所の初代所長に就任し電波探知機などの研究を指揮したが、第二次世界大戦後の混乱と経営難で研究所は1949年閉鎖された。

1949年に東京電機大学初代学長に就任。1955年社団法人テレビジョン学会初代会長に就任。1959年に文化勲章・1971年には勲一等瑞宝章を授与される。

1975年2月28日死去。叙従三位。

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2009年04月29日

発明家〜八木秀次 八木・宇田アンテナ発明〜

八木秀次(やぎ ひでつぐ)

明治19年(1886年)11月28日 - 昭和51年(1976年)1月19日
日本の工学者である。 専門は電気工学で八木・宇田youtubeアンテナの共同発明者として知られている。 大学教授・学長として長年奉職し教育者としても活躍した。
仙台高等工業学校、東北帝国大学時代
当時の電気工学の主たる関心がいわゆる強電と言われる電力工学にあったところをいち早く弱電分野の研究に取り組み、八木・宇田アンテナ、分割陽極型セフレ財団法人斎藤報恩会から「電気を利用する通信法の研究」(八木秀次、抜山平一、千葉茂太郎)で昭和9年度までに合計22万5千円の補助金を受けた。
八木が物理学科、金研で行われていた論文の輪読会に出席しあまりに鋭い指摘をするために、会の開催日を八木の属する電気工学科のゼミのある日と同じにして出席できないようにしようとする動きが出るほどだったという逸話がある。
学内に電気通信研究所の設立を構想するが、実現は八木が大阪帝大に異動した後の1935年(昭和10年)になる。
大阪帝国大学理学部時代
菊池正士の原子核物理研究を主任教授として予算的にも人的にも支援した。
講師として在職していた湯川秀樹を叱咤激励し、それが後にノーベル物理学賞を受賞する中間子論に関する論文につながったとされている。
大学教授時代
八木は講義の際、学生に「本質的な発明ができるようになるためには心眼で電波が見えるようにならなければならない」と教えていた。これをオカルト的に解釈するのは間違いであり、「見えない物の挙動を科学的な推論によって把握する能力―科学者としての勘を持たなければ本質的な発明はできない」と解釈すべきである。

技術院総裁時代
八木が総裁を務めた内閣技術院は、立ち遅れていた日本の科学兵器開発を指導する中心的存在となるべき組織であり、総裁の八木自身、熱線誘導兵器の研究を推進していた。同研究は技術者の井深大と海軍技術将校の盛田昭夫が出会い、戦後ソニーを創業するきっかけとなった。
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2009年04月27日

発明家〜本多光太郎 KS鋼、新KS鋼の発明〜

本多光太郎(ほんだこうたろう)
明治3年2月23日(1870年3月24日) - 昭和29年(1954年)2月12日

物理学者、金属工学者(冶金学者)。鉄鋼及び金属に関する冶金学・材料物性学の逆援助研究を日本はもとより世界に先駆けて創始した。磁性鋼であるKS鋼、新KS鋼の発明者として知られる。文化勲章受章者。文化功労者。
電磁研初代理事長。日本金属学会初代会長。
KS鋼、新KS鋼youtubeは何れもその発明当時世界最強の永久磁石であった。当時は磁石も特殊鋼とみなされていたので、鋼という名称になっている。

研究組織の運営にも手腕を発揮し、東北大学金属材料研究所の設立に尽力し、同研究所を材料科学の世界有数の拠点に拡充発展させる礎を築いた。
無類の実験好きとして知られ、「今日は晴れているから実験しよう」と言って実験室に籠もり、その翌日雨が降れば「今日は雨だから実験しよう」と言ってやはり実験をしていたと言われる。 また自身の結婚式に姿を現さないため、よもやと思って探しに行ったところ大学の研究室で実験をしていたという逸話もある。

自身が指導している研究者に対しては毎日のように実験の進行状況を「どおだあん(どんな状況だ?)」と言って確認していただけでなく、論文に対しても細かい指示を行っていた。このため、本多が輩出した研究者たちは「本多スクール」の出身者ともいわれる。本多は研究者としてだけでなく研究指導者としてもその才能を発揮していたといえるだろう。


本多は身の回りの細かいことは気にかけず大雑把であったという。 東北帝大総長当時、式典での総長による教育勅語朗読はいつも少なくともどこか一ヶ所は読みが間違うか読み飛ばすかした。

羽織は紐の結び目が左右で大きく偏って結ばれ、雨でも晴れでもいつも洋傘を手に歩いていた。 「傘があれば、雨でも濡れんでええわなあ。晴れなら荷物と反対の手にバランスが取れてええわなあ」と語ったと伝えられる。 身なりもこだわらず、着物は古いものをいつまでも長く用い、履物は底が相当磨り減るまで履いた。 雑種の犬を連れて大学に出勤したと伝えられている。
鉄に関して、「鉄」の旧字体「鐵」が「金・王・哉」に分解できることから、「鐵は金の王なる哉」と評した。また色紙に「今が大切」「つとめてやむな」と揮毫したものが残されている。

生涯

1870年、愛知県碧海郡矢作町(現岡崎市)生まれ。
1888年一高入学。
1894年東京帝国大学理科大学物理学科入学。
東京帝国大学理科大学物理学科卒業。
ドイツおよびイギリス留学。
1911年に東北帝国大学理科大学開設時に物理学科教授となる。
1916年臨時理化学研究所第二部研究主任
1917年KS鋼を発明。
1919年東北帝国大学附属鉄鋼研究所初代所長
1922年同金属材料研究所初代所長
1931年同大学総長に就任。
1934年新KS鋼を発明。
1937年第1回文化勲章を受章する。
1949年東京理科大学学長となる。
1951年文化功労者に選ばれる。
1954年没
posted by フラットリバーひらが at 11:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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